自分の信じる「他者貢献」をする
今回は、『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』から印象に残った箇所について書きます。
私が思う成功している人は、大体この本にあるアドラー心理学の考えを持っていると感じます。
核心をついているんですよね。
アドラー心理学では、向上したいと願うことを「優越性の追求」と呼びます。
一方で理想に到達できていない自分を劣っているように感じることを、劣等感と言います。
劣等感をバネに頑張れれば良いのですが、劣等感をできない言い訳に使い始めると良くない。
それは劣っているからできないのではなく、やりたくないからその原因を劣っていることのせいにしているわけです。
なにを原因にしたところで、前には進めなくなるというのは避けないといけないのですが、劣等感は絶好の言い訳になってしまいます。
私もよく自分は頭が良くないからとか、顔が良くないからと言い訳しそうになりますが、これはダメです。
できない言い訳が何であろうが、前に進めないということには変わりありません。
どうやったら前に進めるかだけを、考えないといけません。
いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値があるという話も出てきます。
自分の敵は自分であり、他人ではないということです。
他人と比較したら、自分より優れている人も劣っている人もいるでしょうが、その人と比較して悔しがったり喜んだりしても、きりがないし意味がありません。
他者と競争してしまうと他者の成功は自分の敗北となってしまい、祝福することができなくなります。
そもそも成功する他者は自分が競争しようが嫉妬しようが成功するわけで、そんな行為は意味がないです。
また、アドラー心理学は承認欲求を否定します。
これは、他人の承認を求めてしまうと他人の価値観の中で生きることになってしまうから、そうではなく自分の価値観を生きろということです。
自分は他人の欲求を満たすために生きているのではないし、他人も自分の欲求を満たすために生きているわけではないのです。
これに関連して、課題の分離という考え方もあります。
自分の課題は相手に踏み込ませてはいけないし、相手の課題に自分が踏み込んでもいけない。
自分を変えることができるのは、自分だけ。
他人を変えることができるのは、他人だけ。
そして自分にできることは、「自分の信じる最善の道を選ぶこと」だけ。
本当に、自分の人生を生きるための哲学だなと感じます。
この生き方は八方美人を捨てて自由に生きる、つまり他者から嫌われるコストを支払う勇気を持つということです。
自分のことを好きにならない人がいても、それはその人の課題であり自分の課題ではない。
他人がどう思おうとそれはその人の自由であり、自分がどうこうできることではないです。
あなたは世界の中心ではない、という考えも大切です。
自分が怪我や病気になったら大変だし、自分が死んだら世界が終わったも同然なのだから、世界の中心であると錯覚してしまうのも仕方がないです。
でも実際は自分が生まれる前から世界は存在していたし、自分が死んだあとも世界は存在し続けます。
そういう世界をアドラー心理学では、共同体と呼んでいます。
そして、自分は共同体の中心でなく一部です。
共同体に属するために必要なことが、他者貢献です。
他者に貢献できたときにこそ、自分には価値があると思えます。
自分の貢献が、他人にとって本当に貢献になったかを知ることはできません。
だから他人からの評価ではなく、自らの主観によって「貢献感」をもつことが必要になります。
そして人生は連続する刹那であり、ダンスするように生きるべきだと。
それは「他者に貢献するのだ」ということを常に念頭におき、過去にとらわれず未来を恐れず、いまこの瞬間を真剣かつ丁寧に生きろという意味です。